昭和56年4月14日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
御神訓一 真の道に入れば、第一に心の疑いの雲を晴らえよ。
疑ってはいないけれども、信じてはいないといったようなのがありますね。ね。神様はやっぱござるとはござるだろうと。疑うちゃおらん、かと言うてその神様を信じてはいない。しかも、その神様の本質というものを、まあ、見極めて参りますと、いよいよその神様との関わり合い、いわゆる神様との関係が分かって来る。まあ、教祖金光大神はそこんところを、親と子の関係という風に説かれました。
ですから、本当に私どもが金光様の御信心を頂く者が、私どもの頂いておる、拝んでおる神様は、結局、親子の情を持ってすれば、そこに親子の情としての交流が出けるんだというね、事になりますでしょう。ね。まず、例えば、んなら合楽理念を紐解けば、どういう事になるかと言うと。例えば、詫びれば許してやりたいのが親心という。そんなに簡単に詫びただけで私どもに、まっ、普通の言葉で言うならば、めぐりの深い、言うなら罪深い私が、そんなに一遍に許される、本当に許されるもんだろうかと。
私は、ね、本当に心から改まって詫びれば許されるという、確信がだんだん本当なものになって行かなければ駄目です。合楽理念で言う、ね、十三日という日は、ね、神願成就の日であると、先ず分からせてもらう。なるほど神願成就の日だなと。世界の悪日のように言われておった、いわば十三日という日は、もう本当に神愛の日であり、とりわけ人間氏子と神様との間に、ね、罪とか因縁とかといったようなおだかまりで、神様を遠いところに。いや、人間の幸せとは繋がりようのないような考え方を一生する。ね。
そういう、言うならば手立てを日常生活の中に、本当に言うならば疑いの雲をはらえよと仰る。だから、親先生が言われる事だから、嘘じゃないだろう。と言うて、んなら、それを信じては、いや信じるところまでの信心が進まれてはいないとするならば、それをいよいよ信じられるための修行がいる事になりますね。ね、疑いの雲をはらえよと。それは、かえして言えば、ね、神を信じよという事である。ね。
例えば合楽では、過去の宗教者達が言うた事のないような表現がいくつもあります。だから、やっぱ数千年言うて来た事の方が本当に思うたり、半信半疑でおるような場合がありゃせんでしょうか。ね。人間が人間らしゅう生きていく。もう、その中には今まで、過去の宗教では、もう本当に、もうビックリするような内容なんですよね。それを、合楽では、ね、人間が人間らしゅう生きるということ、その事を有り難く。言うならば、心一つですべてをつくるという事が、合楽理念に言われます。
なるほど、心ひとつですべてを作る事が出けるんだと、本当にそれを信じた時に、その心一つに焦点を置いて、修行が出けるんです。ね。合楽理念に基づく生き方を、私どもが、言うならばこれが本当だと確信する。一切の事に、今まではこんな事はお粗末じゃろう、ご無礼だろうと思うておった事でも、実際は、それはおかげである。だから、今までお粗末御無礼と思うとった事柄にでも、御の字をつけて頂けばおかげなんだと。こういうところは、もう実際、実験実証して見なければ分からんです。
本当にその事に対して、合掌して頂けれる事になったら、おかげであるという事が分からないです。ね。信心に入れば、まず疑いの雲をはらえよと。合楽にご縁を頂いたら、先ず合楽理念の勉強。そして、合楽理念を、それをいよいよ信じれれる。ね。確信の出けれるところまでは、その合楽理念の言うなら話を聞くと、はあ、そうじゃったか。
今までの考え方が間違っておったなあというくらいのところまでは、誰でも分かるんですけどね。それを、やはり確信というところまでには、やっぱりそれを実験実証して行って、なるほど親先生の言う通りだと、いう風に確信が出けて行って、初めて疑いの雲はそれこそ、もう祓いに祓われた事になるのじゃないでしょうか。
ね、疑うて( )ればおかげもすべて、もう嘘だと。ね。半分信じれば、言うならば半信半疑ではおかげも半分と仰るですからね。だから、その半信半疑のところがありゃせんだろうかと。本当の確信の信心が確立されたら、そこにハッキリとおかげの実証が生まれて来るはずなんです。それは、合楽理念をね、あの、基づきますと、もう、沢山あるんです。あの、ほお、そげなこっじゃったばいのと、新たに聞く話がいくつもあるんです。だから、それを自分達の信心生活の中に、それを実験して行ってです。たしかにそうだなと。ね。
一切が神愛といったような事も説きます。ですから、なるほど一切が神愛だなと分からせて頂く為に、昨日の十三日会にも申しましたように、合楽にご縁を頂いておるすべての人達が、おかげを受けておる。けれども、合楽理念が分かったから、それを実行したから頂いておるのじゃない。本当の実験実証は出けておらんけれども、ね、信心は出けておらんけれども、おかげを頂いておるんだという事を、一遍思うて見なきゃいけんというような御理解を頂きましたね昨日。
信心は出けておらんけれども、分かってはいないけれども、実験もしよらんけれども、おかげの実証だけは頂いておるというのが、合楽の御信者のすべてである。ね。それで、いよいよ分からせて頂かなければならん事は、言うならば肉眼を置いて心眼を開けと。なるほど、一切が神愛という風に説かれるが。たしかに、心の眼を持ってすると、どういう事であっても、言うなら、今まで敵のように思うておった人でも、それが神様の姿にハッキリ見えてくる。
神様の一面であったという事が分かってくる。ね、難儀と思うておった事が、難儀ではなく、神愛の現れであったと。それがね、話を聞けば分かるんだ。ほお、そうですかと分かるけどね、やはり、肉眼を持って見ておったんでは、やっぱり神愛じゃあろうけれどもという事になって来る。けれども、がつく。ね、それを、心の眼を持ってすると、ハッキリと神愛と分かってくる。だから、言うなら心の目を開かせて頂く事の為に、様々な信心修行があるのであり、繰り返しの実験が、実証がいるのであり。ね。
いよいよ疑いの雲をスッキリ祓わせて頂いて、そこには、教えの間違いなさ。ね、合楽理念の間違いないという事を、合楽理念そのものが、そのものズバリで、もう真だとこう、最近は言われます。なるほど、合楽理念こそが真だ。だから、それを確信して、それを今までご無礼と思うておった事でも、御の字が心からつけられれるような、それはご無礼じゃないと、おかげと。そして、おかげの世界に入って行く事は、いわゆるおかげが頂けて来るのだ、現れて来るのだという訳なんです。ね。
話を聞いて分かったのじゃなくて、自分自身が心の眼を開かせてもらって見る事が、だから、大事だ。でなかったら、本当の疑いの雲は祓われない。ね。いよいよ、合楽理念の実験実証、そして、合楽理念を信ずる心。そこから、お互いの雲が祓われて行く。ね、なるほど疑うてはおらん。けれども、信じてもいないといったようなのが、大体多いんじゃないでしょうか。ね、そこに、確信を持って日常生活が出けるようになる時。ね。そこには、疑いも雲もない。
それこそ、日本晴れの日々という事になるのじゃないですかね。疑うてないようであっても、やはり半信半疑のところがあるから、おかげが本当にスッキリしない。ね。そのまま信ずれば、おかげはそのまま頂けれる。ね。疑うて( )れば、どんなに素晴らしい教えであっても、それは嘘とも同じ事になってしまう。ね。先ずはお互いの雲を祓うと同時に、いよいよ確信の出けれる信心を頂きたい。どうぞ。